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マッカートニー (アルバム) : ミニ英和和英辞書
マッカートニー (アルバム)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マッカートニー (アルバム) : ウィキペディア日本語版
マッカートニー (アルバム)[ちょうおん]

マッカートニーMcCartney)は、1970年に発表されたポール・マッカートニーの初のソロアルバム。邦題は、『ポール・マッカートニー』と、フルネームとなっている。
ジャケットは、写真家であった妻リンダ・マッカートニーによるもの。表ジャケットはドレンチェリーの写真で、裏ジャケットには生まれて間もない長女メアリーを抱いたポールの写真が飾られている。
== 解説 ==
アルバム『アビイ・ロード』リリース直前の1969年9月30日、アメリカ・キャピトル・レコードとの契約書にサインするためアップル社に集まったビートルズの4人であったが、その席上でジョン・レノンはビートルズから「離婚」したい、と脱退の意思を明らかにする。マネージャーのアラン・クラインによりこの事実は伏せられることとなったが、それ以降ジョン以外の3人による『レット・イット・ビー』の追加録音(1970年1月3日1月4日)などが行われたのみで、グループとしての活動は停止。ジョンはプラスティック・オノ・バンドとしてレコーディングやライヴ活動を行い、ジョージ・ハリスンデラニー&ボニーのツアーに参加するなど、各自ソロ活動へと移行していく。
ポールは、ジョンの脱退宣言直後、ビートルズの事実上の「解散」という事態に直面して精神的にすっかり打ちのめされ、スコットランドキンタイア岬の自宅農場でしばらく引きこもることになる〔この時、一部で知られていた「ポール死亡説」が流布してファンは騒然となり、ピーター・ブラウンらアップルのスタッフは火消しに躍起となった。〕。ポールは一日中ベッドに横たわり、ひげも剃らず、酒に溺れ、一時はヘロインにまで手を出した〔『ポール・マッカートニー ビートルズ神話の光と影』、ロス・ベンソン著、近代映画社1993年 ISBN 4-7648-1708-x〕。だが、ポールは妻リンダのおかげでようやく立ち直り、初のソロ・アルバムの制作を始める。1969年末に機材のチェックを行い、1970年に入ると本格的なレコーディングを開始した。大部分はロンドン・キャヴェンディッシュ・アヴェニューの自宅に4トラックのマルチトラック・レコーダーを持ち込んで録音されたが、一部のパートはロンドンのモーガン・スタジオで録音。また、「エヴリナイト」、「恋することのもどかしさ」、「男はとっても寂しいもの」はビリー・マーティンという偽名を使ってEMI第2スタジオでレコーディングされている〔この時、ビートルズが残した『ゲットバック・セッション』の散漫な録音をアルバムにまとめるべく、フィル・スペクターが同じEMIスタジオでミックスダウンを行っていることをポールは知らなかった。〕。
全ての楽器をポール一人で演奏し、リンダ・マッカートニーは一部の曲のバック・ヴォーカルや、「クリーン・アクロア」の呼吸音を担当。
完成後にアルバムの発売を要求してきたポールに対し、ビートルズのマネージメントを担当していたアラン・クレインはビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』を優先させるため、本作の発売日を遅らせようとする。しかし、ポールにはその気は無く、クラインの意を汲んで来たリンゴ・スターを激しい口調で追い返してしまう。ポールの思いを知ったリンゴの説得でクラインらは『レット・イット・ビー』発売一月前のリリースを許可する。1970年4月10日にマスコミに配布されたサンプル版に添付した質疑応答〔原文 日本語訳 )〕でポールはビートルズ脱退を表明し、その1週間後の4月17日に発売。アメリカでは4月20日に発売された(日本では6月25日に発売)。ポールより先に事実上ビートルズを脱退していたジョンは、アルバム発売と合わせて発表されたポールの脱退宣言を「ポールはNo.1のPRマンだ」と皮肉り、以降数年に渡って二人の関係は悪化することとなる。
このアルバムは全英2位、アメリカの「ビルボード」誌では、3週連続最高位第1位を獲得し、1970年度年間ランキング第27位、「キャッシュボックス」誌でも、3週連続最高位第1位を獲得し、1970年度年間ランキング第9位を獲得、アメリカだけで200万枚以上のセールスを記録している(日本では、オリコンチャートで最高13位)。商業的には成功するが、シンプルな音作りであることと、収録曲の約半分をインストゥルメンタル・ナンバーが占めていることなどから、当時のマスコミからは酷評する声も少なくなかった。しかし、ポールならではの美しいメロディは随所に散りばめられており、彼のパーソナルな部分を垣間見ることの出来る作品として、また、宅録が定着した現在では、その先駆的作品としても再評価されている。
本作からはシングル・カットはなく、1971年2月発表の「アナザー・デイ」が、ポールのファースト・ソロ・シングルとなった。1977年にはウイングスのライヴ録音による「恋することのもどかしさ」が、邦題を「ハートのささやき」に変更してシングル発売され、全米10位を記録している。
2011年6月14日(日本では6月22日)、「ポール・マッカートニー・アーカイヴ・コレクション」と題してリマスター版がマッカートニーIIと共に発表された〔発売元はヒア・ミュージック(日本ではユニバーサル・ミュージック)〕。この際には通常版の他に、未発表の「スーサイド」・「ウーマン・カインド」などデモテイク7曲を収めたCDが付いたデラックス・エディション、さらに ウイングス最後となった1979年のカンボジア難民救済コンサートでの演奏を含むDVDおよびリンダの未発表写真などを纏めたハードカバーブック付きのスーパー・デラックス・エディション、そしてアナログ盤(海外のみ)が発売された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マッカートニー (アルバム)」の詳細全文を読む




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